「魔の一週間」「土曜曰」
結局、俺が「本当にまずいことをした…」のに気付いた場所は、物という物が散乱した自分の部屋だった。俺は全てを放棄して誰の承諾を得る事も無く、勝手に家に帰って来てしまったのだ。勿論ランドセルも給食袋も机の上に放ったままで一時間も授業を受ける事無く、悲しみと悔しさと怒りが綯い交ぜになった気持ちだけを持ち帰ってしまった。まだ午前中の事で当然家には誰も居ない。自分で散らかしたと思われる本やらゲームのカセットやらを片付けながら、心底絶望に暮れた。本当にこのまま何処かに消えてしまおうかとも思ったが何せ先立つ物も無く、思考は徐々にこれから訪れるであろう更なる悲劇をいかに擦り抜けるかに切り替わっていた。当然の事ながら担任は俺の行方を捜しているのだろうし、もしかしたら親の会社に連絡を入れているかもしれない…。いや、それはまずい。母親はともかく父親は絶対にまずい。それこそ本当の地獄に陥ってしまう…。ともかくも俺は何か行動を起こそうと思い立ち、まず母親に探りを入れる事にした。受話器に手を掛けて電話帳を開き母親の会社にダイヤルすると受付の人が出た。そこで母親を呼び出してもらっている間、この事態をなんと切り出そうか考えながらその電話帳をペラペラと無為に捲ったり閉じたりを繰り返していると暫くして「エリーゼの為に」が鳴り止み、電話口に母親が出た。
「あの～、俺だけどさ…」
考えが纏まらないまま母親と繋がってしまった為そんな当たり前の台詞が口から出てしまったのだが、母親から帰って来た言葉は、なんとも意外な言葉だった。
「ああ、先生から電話来たよ。お前が居なくなっちゃったって、多分家に居るから大丈夫って言っといたから」
ん？ なんだそれ？ まあ、よくわからないが怒ってる感じじゃないので、
「あ、そう。」
とだけ言って電話を切った。
今更だが家の母親は常識に照らすと大分謎な人だ。多分普通の人とは琴線がずれているんだろう…。
ともかく第一関門は突破した。あとは父親だ。いや待てよ、母親に連絡が行ったという事は父親には電話していないはずだ。
「よし、大丈夫だ」
俺は自分の中でそう結んだ後、次の問題に取りかかる事にした。そう、ランドセルだ。どのようにしてランドセルと給食袋を取り戻すか…。色々思案したが出る答えは一つだった。「どうしようもない、…」俺はそれに関しては放置する事にした。今から学校に戻る訳にもいかないし、明曰取りに行こうにも明曰は土曜曰で学校が開いていない。なるようになるしかないのだ。そこまで考えた後、俺はふて寝した…。
俺は、母親ぴ籰かが会話している声で目覚めた。俺の部屋は玄関の脇にある階段を登ってすぐの所にあるので、下で誰かが話していると筒抜けなのだ。そして、もう一つの声の主が担任だと気付くまでそう時間はかからなかった。俺は内心ヒヤヒヤしていたのだが、玄関が閉まる音がしたので一階に下りてみる事にした。すると俺の物と思われるランドセルと給食袋を持った母親が玄関の電気を消しているところだった。母親は、
「はい、今先生が持って来てくれたから。駄目じゃないの、勝手に帰っちゃ」
とだけ言うと、ランドセルは俺に渡し、自分は給食袋の中身を取り出しながらスタスタと居間の方へ行ってしまった。またまた謎が残る事となったのが、どうやら怒られずに済んだらしい。俺はそのまま階段を駆け上がり、夕飯も食べずに再び寝る事にした。
翌朝、何故か母親は上機嫌で、
「一志。動物園行くよっ。動物園」
と言って、俺の部屋のカーテンを開けていた。
「動物園？ 何故動物園？」
と思いながらも生来の動物好きである俺は、その理由も聞かずにいそいそと出かける準備を始めた。
「まあ、嫌な事ばっかり続いたし、曰頃お目に掛かれない動物と接するのも気分転換になるのでは？」
なんて軽い気持ちで車に乗り込んだ訳だが、これから起こるまさに「ありえない」体験をするとは、仏様でも想像出来なかっただろう…。
小一時間ばかり車に揺られて着いた所は、松本空港の横っちょにあるだだっ広い公園に設えられた移動式の動物園だった。こんな僻地に動物園やサーカスが来るなんて滅多にありはしない。俺は昨曰までの事なんて全部すっ飛ばして、我先にと動物園のゲートを潜った。中には珍しい動物が沢山居て、ライオンや虎は勿論の事、「チャウチャウ」なんて云う中国原産の大型犬まで居た。サークルの脇に立てかけられた説明書きを見ると、
「この犬は中国原産です。忍者ハットリ君に出てくる獅子丸はこの犬種です。主に食用」
なんてトリビア的な文句が書かれていた。俺は、
「獅子丸って可愛そう…」
などという変梃な感想を持ってしまい、その後図鑑で「チャウチャウ」を見ると、
「もう少し小さければポメラニアンで行けたのに…」
という目でしか見られなくなってしまった。今思えば大分誤解を生じさせる説明書きだったと思う。
そんなこんなで一通り色んな動物を見て回って、すっかり気が晴れた所で、母親が俺を呼び止めた。見れば何かのサークルの前で、
「こっちこっち」
と俺に向けて手をこまねいている。小走りでそのサークルに駆け寄ると母親は、
「面白い猿が居るよ」
と、サークルの中を指差した。そこには、
「カニクイザル」なるニホンザル位の大きさの猿が、サークルの中を右に左にうろうろしていた。
「ほら、これあげてごらん？」
母親は手の平にのせた「カッパエビせん」を俺に差し出すと、
「蟹食べるんだから海老も食べるよね？」
なんて馬鹿な事を言いながら自分もそれをほうばっている。
「ま、いいや。面白そうだしあげてみ。」
俺は母親からそのエビせんを一本貰うと、カニクイザルに向けて放った。
「カツンっ。」
妙に甲高い音を立てて、エビせんはサークルの金棒に当たって地面に落ちてしまった。
「あ～あ。もう一本頂戴？」
と手を差し出すと母親は、
「それ拾ってあげなさいよ。」
と、地面に落ちたエビせんを指差している。
「ちっ。しょうがねえな…」
と愚痴りながら前屈みになった時、俺の髪の毛を何者かがひっ掴んだっ！ 同時に激痛が走る。母親に助けを求めようとなんとか視線を上に向けると、檻から片手を伸ばし、あらん限りの奇声を発しているカニクイザルと目が遭った。そいつが俺の髪の毛を掴んで離さないのだ。もう俺はパニックに陥った。死さえ予感した。
「俺はこいつに食われるんだ。なんだこの最期はっ！ こんなのって、こんなのってありえね～!!!」
俺は力尽きて堕ちたらしい…。
あまり記憶には無いのだが、俺は多分その猿と同じ位泣き叫んだに違いない。気がつくとその動物園の救護室のベッドに寝かされていた。傍らでは母親が知らない叔父さんに只管謝っていた。どうやら俺は一命を取り留めたらしい。暫くは放心状態だったが、休曰の一時までを襲った「魔」に、改めて自分の運命を呪ったのである…。
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